昭和五十四年三月七日 朝の御理解


御理解第九十七節
「神を拝むものは拍手をして神前に向かうてからは假令槍先で突かれても後を振向くことはならぬぞ物音や物声を聞くやうでは神に一心は届かぬ」


 神に向かう姿勢、または神を拝む姿勢を教えられたのでございましょうけれども、私はこういう姿勢が出来たら必ずお徳を受けると思うですね。
 今日は私ある方のことをお願いさしてもらいよったら『その方が手まくらしてこう横になって寝ている。手まくらをしてそして何か足の先で物をこうやってかき寄せよる』ところを頂いた。これはまあ何ちいうでしょうかね。だらしのない姿ですけれども、信心にはそういう人間には、ま、だらしのない心がありましょうけれども、そこを私は改めていく、と言うならばそういう信心から、言うなら神向かう、信心へ向かう。拍手打ってから、とこう言われる。只拝む時だけの姿勢ではない、ね。これはだから信心をさせて頂く者の姿勢、または形の上で拝む、という事ではなくて心の中に信心を頂く、ね。
 だから心の中ででもです。言うならここでは微動だもしない、と言うかね。そういう信心。合楽ではいつの場合でもおかげ、という事よりもお徳を受ける、という意味の事を頂くんですけれども、昨日のご理解の中に私が昨日お夢を頂いた久留米の井上さんが物を売っておられる。二段構えになっておる車で上にはフがいっぱいある。下にはいろんな物が、こう下の方はこう大分売れてるけれども上の方が全然売れていないという。麩と言うのは鯉のエサ、鯉というのはここではご神徳というふうに頂きますから、井上さんのご信心なんかはもうすばらしいですからもうおかげの体験というものはいっぱい持っておられる。それこそ下で売っておられる。もうこういう時にはこういう信心でおかげを頂いた。こういう時にはこういうおかげを頂いた、とね。例えばあの神戸におられるお姉さんが子宮癌というお知らせを受けられた時に、もうそれこそびっくりさせられたわけですけれどもまだお母さんがおられる時ですから「あの母には親孝行と、ね。心配させちゃならん、と言うので知らせませんからどうぞおかげ頂かせて下さい。」というお届けがあった時に私は「何が何でも一番あのしら真剣に思うのは親だと。その親に知らせん、という事はないよ。
 だから親に知らせなさい。」まあそれからそれを聞いておばあちゃんが も それこそ尻ひっからげての信心だった。あの年で朝参りを一生懸命されました、ね。
 そしてなら見事にそれこそ母親の一念とも申しましょうかね。おかげを頂いた、ね。姉妹ぐらいで出る一心じゃないです、ね。あれがもし井上さんでなかったならば本当そうですね、と言うてそのまま取次させて頂いたかも知れん。
 そして亡くなられたかも知れん。ご姉妹は、ね。けれどもそのやはり目先の言うならば親の心配させてはならない、という親を思う親思いじゃろうけれども神様は、ね、親の一念ぐらい強いものはない。これは親に知らせないけない。
 そこで言うならばもう年とったけん、年寄りやけん、と言ったようなその思うとったところがそのもう元気を出された。
 そして一心にお縋りしておかげを受けられた、と。ま、言うならばそういう普通ではない体験をいくらも持っておかげを受けておられる、ね。一つの信心の言うなら今日のご理解からいくとです。厳しいようですけれども、ま、今日のご理解なんかに当てはまるのではないでしょうか。
 先日から商売が不振だから一生懸命信心しておられるわけなんですけれども、ま、赤字から赤字でこの頃の商売が思わしくない。それが段々手を広げておられるもんですからそのお父さんという人がこの頃親に一つも小遣いをくれんがかくし財産があるだろうと、言うならいろいろ調査してから裁判にして、息子の店をですね、調べると言うようなお届がありました、ね。そしたら嫁さんが頂いとるお知らせがですね、御祈念をさして頂きよったなら後ろから誰かが抜身の力を突きつけたところを頂かれた、と。正しく私は今日のご理解だと思う、ね。
 だからどげん考えても親が子を、言うならばそんなにいじめるとかこなそうとかいう親はありませんからこれはもうどこまでも神様のご演出にちがいない。
 だから例えならその首の座に座るようなことになってもそれこそおどろくことはいらんばい、微動だもしちゃならんばい、と言うた事でございましたけれどもです。そういう時にです、ね。向こうが向こうならと親子ケンカが始まるようでは信心にならんのです、ね。
 ですからそういうところを抜けきる私はそこにお徳が受けられる、と思うです。
 だから今日のご理解は只御神前に向かう、拍手して向かった姿勢だけではなくてね、信心する者の日頃の姿勢、その姿勢の中にです。言うならばこうやっててまくらで一寸起きて取りゃよかものを足の先でかき寄せる、といったようなだらしのない信心では、ま、おかげになってもお徳は受けられない、と思うです。
 これはもうこういう姿勢を、姿勢ということはお徳を受けるための必須の条件だと思うですね。ね、私共信心させて頂いて段々この構えが出来てくる、ね。姿勢が正されてくる。日々の例えば昨日のご理解改まり、ということと、ね、家庭に不和がない、という一番初めと最後のところを芯にして昨日はお話し聞いて頂いたと思うんですけども、とにかく日々の改まりより、はぁ、自分の信心のこげんところがダラシのないもんなぁ、と気がついたらそれを言うならば改めていく、という事が徳を頂く信心へ一歩近づく。言うなら気付いた事を改めていくことが築くことだ、という風にこれは、ま、光昭が頂いとるお知らせですけれども、ね。
 だからおかげに終始しまたは人間だから、というような割り切った考え方ならばそれは責めることがなければ改めなければならない、ということでもなかろうけれども信心して身に徳を受けていく楽しみ、徳を築いていくということの喜び。私はこの九十七節はお徳を受けるための必須の条件だと思うんです、ね。
 だから素晴らしい信心しよってもガタガタッとこうだらしなくくずしていってもです。すみません、というような信心が次に出来るとね、神様はそれをどうとか言われるようなことはないです、ね。またそこにしみじみとした信心。
 昨日研修の時に言うならば信心のセンチメンタル、と言ったような誰かお知らせを頂いとる人があってその事について、ま、お話しをしたことでしたけれどもね。私共はそれこそ、あちらの森部の高山さんでした。
 昨日親子でお参りして見えてから「先生この頃合楽理念に疑問が生まれました。
 」とこう言うのです。あっ、進歩だ、ね。やっぱ疑問が生まれなきゃ本当なものは生まれては来ない。
 そして、ま、内容がいろいろございましたけれども、とにかく悲しうないのに涙がこぼれる、ね、と言うてうれしい、ということもないのに、有り難い涙でもないのに涙がこぼれる、ね。いうならば信心のセンチメンタルだよ、と言うわけですね。ま、教祖様がおっしゃる、うれしいやら悲しいやら、とちょっと似たような感じがしますけどもね。それは自分自身の信心がこれ程神様が思いをかけておって下さるのに自分のだらしのない信心がガタッと落ちてしもうて何か御祈念もしうごつない気持ちになって御神前に出るのもおっくうになって、そういう時にその何とはなしに悲しいでもない、うれしいでもない何ともわけのわからんような涙がこぼれる。神様が催されよるわけですね。そういうことでは神様が、言うならば催しが私共の心にひびいてくる。そういう場合もございますですね。その次の瞬間にはだからお礼を申し上げる、ね。
 だから合楽理念に対するその、ま、疑問と言うのは自分の信心が低下したときにそのおこってくるものらしいんです、ね。
 そして、ま、結論すると結局、ま、土の信心だよ、と言えば一遍に答えが出てしまうような感じのお届けでしたけども、ね、信心をさして頂いとっても様々な時があります。けれどそういう信心が段々行きづたえた時に改めていく、と言う生き方を身につけて行って言うならば何というですかね、ダラシのない事でおかげ頂くよりもきちっとした信心によっておかげを頂く、ということの方がこんなに気持ちがよい、こんなに心の状態がシャンとしている、ね。これは浴衣がけと、言うならば紋付袴をつけたように違うんです、ね。
 だからいつも私共の場合は言うならばね、心の状態というものを次の御理解じゃないですけれども、「心は神信心の定規ぢゃによって」、と仰せられるその定規を押し当て押し当て神様へ向かう姿勢を正していき改めていく、ね。
 そして本気でお徳を受けていく、という事の喜びが段々わかってまいりましたらね、姿勢をくずす事の方が言うならバカらしうなってくる、とね。
 いつもですけれどもお徳を受ける、今日もやっぱりお徳を受けたいためのですけどもこれはもうこの言うならば九十七節はお徳を受けるためのこれはもう必須の条件だとわからせて頂いてはあ自分の信心はお徳を受ける信心にはまだほど遠いな、とわからせて頂いて一段ずつでも近づき一段ずつでも進めていく。そういう毅然とした信心が出来ておる時でなからなければ後に刀をふり上げられとる時にですね、ふり向かなきゃならんのであり、言うならば只のおかげに終わってしまう。そういう時こそ言うならばドッコイ、と受け止める信心してやはり一段と徳を進めていかなければならない時を乱してしまう、というような事になるんです、ね。
 もうこれは私も含めてダラシのない事でございますけれどもです、ね。そういうものがやはり一つずつ、言うならばおかげを頂いてね、一つずつ神様へ向かう、神の信用を頂くための信心にしていかなきゃならんとおもうですね。
                                                      どうぞ